『禅』のシンプルな考え方~いらないものを捨てていく~

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『禅』とは禅宗や座禅の略であり、修行としてはとにかく坐る(坐禅する)ことで研鑽し、人間が生まれながらに持つ「本来の面目」に立ちかえることを目的としています。

でもこの『禅』を少しだけ勉強してみるとわかるのは、もはや「宗教」という枠を超えているような気がするんです。

アップルの創始者スティーブ・ジョブズなど、海外でも禅は広く愛されています。

なぜ、「禅」は国を超えて時代を超えて愛されるのでしょうか?

『禅』の考え方

キリスト教イスラム教などの一神教は「神」という絶対神がいて、神がすべてを創ったのだから敵であっても愛しなさいという考え方です。

しかし、

仏教にはそもそも絶対的な「神」はおらず、宇宙に存在するすべてもののは相対的に存在する

という考え方に基づいています。

相対的というのは例えば、気温20度の部屋があったとして、そこよりも寒いところから入ってくるとその部屋は「暖かい」けれど、そこよりも暑い30度くらいのところから入ってくるとその部屋は「寒い」ということになる。比較するものによってその部屋がどういうものかが変わる。

そういうものが「相対的」ということです。

ひとつの見方がある、しかしそれがすべてではない。

というのが「禅」の考え方で、禅問答にも通じるところがありますね。

宗教は「自分の信じるものが絶対だ」と思い込んだ時に、相手を排除しようとして戦争が起こります。

でも「禅」にはそれがなく、禅僧ですら「禅がすべてではない」とおっしゃる方が多いそうです。ルクセンブルク大司教でさえ「これからは、キリスト教だとかイスラム教だとか仏教だとか、そんなことは重要ではない。

大切なのは、宗教心に基づいてそれがどれだけ社会のために、人の為になっているのかということである」と考えている。

もう、枠に囚われて生きる時代は終わったのだなと思います。

『禅』に学ぶ心が自由になる考え方

仏教の流れの中にある「禅」ですが、仏教といっても宗派によって少し考え方は異なっているようです。

「死後」の極楽浄土を求めるものもあれば、禅宗のように「今ここに生きている自分」は何かと坐禅することによって問い続けるものもあります。

宗教というイメージだけでいうと「死後の世界」に何かを求めるイメージがありますが、「禅」は生きている人間のためにあるものといわれています。

そして「禅」のスゴイところは、教えを忠実に実行しながらも「禅」自体に「とらわれない」というところ。

よく「自分探し」や「自己実現」といわれたり「自分」を持っている人が素晴らしいと考えられがちだけれど、禅の道は「自分」というものはそもそもなく、坐禅によってその自己すら一度壊して捨てて実体のない「自分」を見つけることだといわれます。

難しくてなかなか理解はし難いですが、坐禅によってこれまで生きてきた中で身にまとってきたいらないものを取り除き、より心豊かに生きていこうというという考え方なのです。

神秘主義に囚われることなく、死後の世界も語らず、ただ坐っていらないものは捨てていく。

そんなシンプルな「とらわれない」考え方は宗教を超えて現代社会に寄り添っていると思うのです。

生きていると、どうしても「自分のやり方」なんかにこだわって、大人になるにつれ受け容れるという心を失っているようなそんな気持ちに私自身なることがあります。 

育児をしていると特にそういうことが多く、本来の意味や目的を見失ってまさに目の前のことや自分のことしか見えなくなってしまうことが。

心が不安になると、何かを取り入れようとしたり持っているものを増やそうとするけれど、実は禅の考え方からすると「いらないものを捨てていく作業」こそが必要なのかもしれない。

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