「人生は運」は半分正しいけれど、それがすべてではないのだ

生きて年数を重ねるほど、この世の不条理さや不公平さのようなものを感じることってあるかもしれません。

世界には色んな差別や偏見、戦争、貧富の差、環境の差などは確実にあって、すべてが平等で格差などないというのはきれいごとにも思えたりします。

成功するかどうかは「運」と断言している人もいますし、そういう生まれながらに抗えないところはあるのかもしれません。

これまで多くの人の四柱推命の命式をみてきましたが、何をもって成功というのかは分からないけれどいわゆる「一般的な成功」である地位、名誉、お金、を社会的に得やすいかどうかというところではやっぱり生まれつきの差があります。無いって言いたいけれど、努力次第!とか言いたいけれど、それは現実にあります。

しかし、

それはあくまでもその「時代」の多くの人が思い込んでいる「常識」や「空気感」でしかないということです。

常識はいつだって変化していくもので、常識だと思っていることはそのうち崩れて全く正反対になることだってある。自分が今考えている「幸せのゴール」のようなものは、実は深い部分で求めている「幸せ」とは違っていることだってあるんですよね。

命式をみて、本質的に求めていそうなものと現実的に今口に出して求めているものが全然違っているなという方はけっこう多くてですね。。「幸せとはこういうもの」と誰かに信じ込まされていたり世の中の空気感にのまれていてそういう考え方になったのかもしれないと、感じる人が本当になんと多いことか。

私自身ももしかするとそうかもしれない、いやすべての人がそうなのかもしれない。

人の数だけ個性があるな~と命式をみていて思うし、やっぱり「幸せ」もその数だけあってそれぞれがものすごく偏った価値観が無数にあるはずですよね本来は。だから、「これが幸せだ!」というものは本当は無いはずで、同じひとつ価値観のことを「幸せ」と感じる人もいれば「不幸せ」と感じる人もいて、「無関心」の人もいるのがふつうということにならないかなと思うんです。

だから、まあ人生半分は「運」かもしれないけれど、もう半分はこの持って生まれた偏りのある「個性」をどうやって生かしていけば私は人生に満足できるのか?ということを考えて生きていくのが良いのかもしれないですね。

そのためには、自分の心に正直になって他人のせいにせず、良い意味で自分本位になることが必要なこともあります。間違ったり失敗してはいけないという価値観はゴミ箱に捨てて、心が求めるものにチャレンジしてみたり興味を持ってみるのもいい。誰かの期待に答えて生きていく必要もないのです。

「人生運ゲーだわ」

と言っているだけでは、それはただ逃げているだけかもしれません。

そう思ってしまう日があっても良いけれど、半分真実で半分嘘、くらいに考えて「じゃあここからこの自分でどうやって生きていこう?」というアゴを上げて前を向き覚悟を決めなければならない瞬間は人生の中でどうせいつか来るのだから。

バカみたいに人生について生きる意味について悩んだ中高生時代も、とにかく自分を表現したい欲求に溢れていた20代の頃も、出産や子育てで自分の甘さや弱さをこれでもかという程見せつけられた30代も、全部が今の私の幸せへの一歩だったと思っています。

いつまでたっても私は今のところただの人ですが、多少無理めなことにもチャレンジしながら悪くない面白みのある人生を送れているかもな~くらいには感じていたりします。

よし、共に楽しくいこうぜ友よ!