運命学の枠の外側
四柱推命などの運命学で分かること、それは生まれながらにその人が持っている個性であったり、これから歩む未来のある程度の予見であったりします。
それを知っているかいないかでは、人生の歩き方は確かに違ってくるかもしれない。
でも、運命学を学び色んな人生について学ばせていただく機会が多いとふと思うことがあるんです。
自分のことを深く知ることって、けっこう怖いことではないか
と。
たしかに知ることで、
今すべきことや避けたいこと、
自分に向いていることいないこと、
何を生かして生きれば最善であるかということ、
など生きる上で無駄のない行動を取ることはできる。
でもそれと引き換えに、ある種の「枠」に縛られて少々不自由になることもあるのかもしれない。
知らなかったならば気にしなくて良かったことを気にしてしまったり、
「こうした方が良い」ということにこだわってしまい苦しくなってしまったり。
それでも私が運命学を学び続けるのは、
自己救済のためと、運命学によって生きることがほんの少しでも楽になる人が確実にいるからだと思います。
でもやっぱり運命学はあくまでもケーキの土台のようなもので、そこをデコレーションして彩るのは自分の選択や意思なんですよね。
本人の強い意志やエネルギーには何者も絶対に勝てない。
人生は自分次第で大きく変えることができる
これは私の願望ではなく、
多くの命式をみてきた中で確実にそうとしか考えられないという結論です。
命式通りそのままを生きているような人もいれば、
確実に自分の意志で、苦労も重ねながら大きく人生を変えてきたであろう人もいます。
きっと、
占いもたとえ神様だって、
そこに生きている人間がいかに生きるかという命の強度の前にはかなわないのかもしれません。
世界を動かしているのはやっぱりそこに生きている自然や人間。
不確かなことや誰も予測のつかないことの連続の中でこそ、命は輝くのかもしれません。